演奏会が終わって、夜も少しばかり更けた街の中を、一人で演奏会の感動と共に家路につく…(本当はここにかわいい女の子が一人いた方がいいんだけれど)こんな感動を味わいたくて、コンサート会場に向かっている。
普段行く演奏会といえば、大抵クラシックか打楽器アンサンブルの演奏会である。これらの分野 はどちらかといえば、マイナーな分野の演奏会であろう。それに行くのは大抵友人関係の演奏会であるから、どうしても偏りがある。これからの文章を読むにはそのことに留意してもらいたい。
クラシックの演奏会といえば、どうしても敷居と値段が高いというのと、それに関連するのかもしれないが、「オタク(よくいえば「マニア」)が集まってる」というイメージとでかつてはそれほどポピュラーなものとは言い難いものであった。これはクラシックというものが明治以降に輸入された際に、高級なものとして受け入れられ、そのようなものとして演奏されたという事実があるからである。実際の演奏会はいわゆる貴族や皇族、あるいは都会のインテリによって占められ、芥川龍之介ではないが「金と骨と皮と白粉」(『あの頃の自分の事』)に包まれた貴婦人が演奏会の聴衆の多くを占めてきたのであった。このことは、クラシック音楽というものを知的階級の趣味(あるいは上流階級の社交の場)として独占することになり、「クラッシクは難しいものだ」というイメージを植え付けることとなった。事実、クラッシックの演奏会はその前身となるオペラ公演からして王侯貴族の交友・社交の場であり、貴族階級に代わって歴史の表舞台に登場したいわゆる資本家階級も、社交の場、自らを魅せる(大半の場合は「見せる」の漢字をあてるほうが正しいであろうが…)場としての演奏会の機能を持ち続け、ある意味ではそれを増幅させた。その最たるものはロイヤル・ボックスであろう。これは音楽を鑑賞するために設けられたものというよりはむしろ、そこにやってくる王侯貴族がその姿をみせるために作られたのがそもそもの始まりである。
そのため演奏家というものは概して騒がしいものであり、だれも実際の音楽を聴いているとは言い難かった。ハイドンが『驚愕』交響曲を作曲したのもこうした演奏会の状況を考えると至極当然のことであった。しかしロマン主義の時代になり、音楽家というものが独自の「芸術家」としての存在を認められるようになると芸術家自身が自分の芸術作品に対してある神聖な気持ちを持つようになり、「演奏会というものは芸術家の霊感の産物である作品を鑑賞することである」という考えが出てきたのである。そのため逆に「演奏会というものは芸術家の作品を聴きたい者だけがやってきて真剣に鑑賞するものである」という考えがとくにワーグナー以降顕著になりそれが現在に至っているのである。その考えが戦後日本のインテリ層に浸透し、深刻さを重視するインテリ思想と合致したために「芸術とは深刻なものであり、そのように対峙しなければならない」という「芸術修行論」がはびこることになったのである。
しかし、ただ単に「固苦しいものだ」と決めつけるわけにもいかない。 ただ最初から「クラシックはかくあるべきだ」というような哲学的命題を胸に抱いてコンサートに行かなければならないかといえばそれは間違いである。それこそ「クラシック精神修行論」の反映であろう。こうした考えでクラシックを聴くのが間違っているとはいえないが、これだけしか聴き方がないというのは間違っている。実際の作品を聴けば「これでもクラッシクか」と思えるようなものも多く、案外聴き慣れた音楽の中にクラッシクが潜んでいたりする。たとえばテレビのコマーシャルやドラマのバックグラウンドミュージックの中に。あるいはどこかのミュージシャンの歌の中に。かつてはアカデミー賞に輝いた『アマデウス』のような作曲家を主人公とした映画が多数作られ、その映画によってポピュラーになり、ポピュラーソングの仲間入りをした曲も多数ある。そうした曲の中にあるクラシックを聴くことで、次第にクラシックに対する興味が出てくるであろう。別に「運命」や「第九」のような深刻なものだけがクラシックではないのである。この文章をMacで打ち込んでいるときにBGMで流しているのはリロイ・アンダーソンやヨハン・シュトラウスといったどちらかといえばクラシックとは言い難いような作曲家の作品である。こういった作品から入っていくことで、クラシックに対するアレルギーを取り除いていってほしいと思う。
演奏会の楽しみ方は人それぞれであろう。私の場合は、内輪の演奏会に行くことが多いためか、奏者の動きやその曲の解釈といったことに最初に目が届く。こういった点はまず最初に目につきやすいところであろう。本当に最初は演奏者の服装といった表面的なことから入っていくこともいいかもしれない。その後からその楽曲の持つ中味などといったいわゆる「専門的知識」がついてくればいいと思う。こうしたことからクラシックにかかわらずいろんな演奏会にいくことで、それぞれの音楽の良さに気付いていくことが、「精神修養」といえばそうかもしれない。しかし、「これから演奏会に行くんだ」と身構える前に、気楽に演奏会にいくことがまずは大事なのではなかろうか。とはいっても演奏会の入場料を考えるとそう気軽に…という人も多いであろう。別に演奏会といっても、そんな有名なものを聴きにいく必要はないと思う。最上のものを聴くことに別に異論を挟む気はない。最上の演奏を聴くことによって得られる感動は何物にもかえがたいものがあることも事実である。しかし高額の入場料に見合っただけのものをもって帰ろうという考えが沸き上がるとせっかくの名演が台なしになってしまうことになってしまいかねない。コンサートに行くときはお金のことを考えないようにすることが第一であるが、どうしても気になるのであったらアマチュアオーケストラの演奏会などの比較的金額の安い演奏会に行くというのも方法ではないだろうか。
音楽は人の心を豊かにするとはよくいわれることである。気軽に音楽を聴くようになればもっとゆったりと生活ができるようになるような気がする。時にはテレビやCDからはなれて実際の演奏会に行ってみるのもいいのではないだろうか。ただ単に堅苦しいだけのクラシックの演奏会でなく、もっとやわらかく豊かな演奏会にめぐりあえることを祈りたい。